自分を知るために他者を観察する

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こんにちは。

 

先日友人がお子さんを連れて我が家に遊びに来ました。

息子より少し下の年齢の子でその遊ぶ様子がかわいくて、とろけました。。

というのはもちろんですが

我が子を知るために他の子を観察することの意味、

引いては自分を理解する自己理解につながる部分を感じたので

お話してみようと思います。

 

 

我が子のことが知りたい!

詳しくは後述していますが、

息子は興味関心の先が多い上に移り変わりも激しいです。

なのでいつも息子のホットなアンテナの向きはどこなのか知りたいです。

(じゃないとただでさえ宇宙な息子の頭の中がさらに宇宙になる…)

そして温泉のように湧きまくる興味関心のアンテナが1つでも捕まえられたら

メモしておいて夫と共有、

それを基にお出かけ先を決めたり遊びのタネにしています。

家族みんなの興味はいつもバラバラだけど重なり合う時もあるし、

息子のために向かったお出かけ先のついでに自分の興味を満たせることだってある。

だからいつも家族みんなの興味のアンテナが知りたいんです。

息子の性格や特徴も同じように捕まえられたら

よく手帳に書いたり夫と共有して仮説を立てています。

そうすると息子に対する見え方がちょっと変わるときもあって、楽しいな~と。

とにかく息子のことが知りたい!!!

 

えっおもちゃしか触らないの…!?

我が家は子どもが1人。

なので私にとって子どもとは‥を表す子ども像は息子そのものです。

息子は好奇心の塊みたいな存在だといつも思っています。

今4歳の息子はいつも好きなことがありすぎて大忙しです。

息子は比較的早起きはできる方で夏なら4時台、冬でも早ければ5時台に起きることも。

そんな早起きな息子はなぜかいつも朝の登園前は大忙しのバッタバタ。

なぜならやりたいことが多すぎる上に

目移りも多く、脱線多し

(朝ご飯食べてたはずなのに食パンが魔法のじゅうたんに見えてきて飛ばしてみたりり、電車にして走らせたり。おもちゃを片づけてたはずが…(以下略))

あれもこれも手を出して時間パンパンに遊んでいます。

(その姿にいつもつい自分に重ねてしまう)

 

今4歳の息子はそんな感じですが、

ハイハイをし始めた生後半年頃からずっと似た感じ。

あれもこれも全部触りたいし、全部遊びつくしたい。

だから家の中でも外でも、子育て支援センターでもどこでも何でも触りたい

見たことないものがあればロックオンで絶対に触りたい。

高い所にあるなら踏み台を探しに行って取りに行く。

0~2歳ごろまでは子どもってきっとそんなもんなんだろうって思っていたし、

4歳の今もそんな子はあるあるな姿なのかもしれません。

なんせn=1なのでよく分かりません。

 

でも、先日遊びに来てくれた子は

床置きしていたドライフラワーには一切触れず。

手の届く高さにあったブルーレイレコーダーにも興味を示さず。

おもちゃに手を伸ばす。

見たことがないおもちゃがあったから新鮮で楽しかったらしくよく遊んでくれていました。

え、おもちゃで遊んでくれるの?って思いました。(笑)

息子が同じくらいの年齢の頃は目が全く離せなかったので

誰かのお家に連れて行くのはちょっと気が引けるくらいで

なんてゆったり見ていられるんだ、と思いました。(笑)

 

息子とその子、どちらかが素晴らしいとかそうじゃないとか言いたいわけじゃなくて

ただ、おもちゃ以外全然触らない事実に衝撃を受けました。

 

我が子を知るために他の子を観察しよう

今まで子どもとは何でも触る生き物だと思っていたけど

少し主語が大きかったし、

その子も新鮮なおもちゃが我が家に無かったら

他のおもちゃじゃないものをもっと触っていたかもしれない。

断片的にしかその子を見ていないから

その子を「そういう子」と断定したいわけではないし

優劣をつけたいわけでもないんです。

ただ、自分の子だけを観察していたら分からない

他の子との比較によってわかる自分の子の特徴もきっとあるんだなと

 

比較ってネガティブなイメージでよく使われる気がしているんですが、

優劣をつける目的の比較ではなくて

自分と他者の違いを知る意味での比較って大事だなと感じています。

他者と比較して自分の特徴はここにあり"そうだ"、

という、0か1かの白黒はっきりじゃなくて

グラデーションのイメージ。仮説といった感じ。

 

つまりは、自分を知るために他者を観察しよう

ここまで子どもたちの話をメインで話してきたのですが、

結果的に我が子→自分に置き換えることもできるなと感じました。

自己理解って自分だけ見て理解する部分もあるかもしれないけど

自分が見えている自分って結構狭いなとも感じています。

息子だけ見て息子を知ろうったって、息子の当たり前が子ども全般の当たり前に思えてきて、やっぱり埋もれてしまったり。

同じように自分にとって当たり前のことは全然見えない、気づかない。

だから他者との比較で立てた仮説の寄せ集めで

なんとなく傾向が出てきて理解できる部分もあるかもしれない。

 

例えば負けず嫌いな性格だと自己理解したとして、

自分よりもっと負けず嫌いな人はいるかもしれないし、

あらゆる場面で負けず嫌いを発揮するわけじゃないかもしれないし。

ものさしがはっきりしていない話なんじゃないかと。

だから、こういう"傾向"があるだろうの仮説の寄せ集めなのかもしれない。

傾向は未来永劫変わらないなんて保証はきっと無くて、

常に仮説止まりなのかもしれない。

 

今の自分を知る有効な仮説を得るために

他者を観察して比較する自己理解もあるんじゃないかと思いました。

 

ということで、息子とその周りにいるお友達を観察するために

保育園帰りの(ちょっと苦手な)公園に引き続き通いたいと思いました!

そういう自分にとってポジティブな理由が

明確に頭で理解できると少し納得感持って動けたりします。(笑)

 

おしまい。